食に関する不安について、現在では安全性だけが重視されている。ところが歴史的にみると、食糧不安がよく叫ばれたように、むしろ食料確保が最重要の課題であった。食糧不安はアフリカなどだけの問題ではない。日本でも少ないながら餓死者が出ているし、食料を十分に確保できない人も少なくない。また、栄養性についても、消費者にとってはしばしば重要な懸念材料である。さらに、嗜好性に関しても、「冷や飯を食わされた」に代表されるように、まずい食事は精神的ストレスになる。このように、食における不安の対象は安全性 以外にもいくつかある。 安全性を対象とした場合でも、不安に係わる要素が下図に示したように数多く存在する。食の不安に係わる要素は食品の安全性だけではない。だからこそ、食の安全・安心が問題になる。 まず食品の性質について、安全性に問題があれば不安を生じさせる要素になることは言うまでもない 。安全性以外にも属性・特性がある。食品の属性・特性のうち不安に係わることが多いのは、 自然・天然とか新技術・新規性であろう。このうち新規性は別途論ずる必要があるが、それ以外の要素はそれ自体というよりも、次に述べる生活規範との係わりで判断されるように思える。 一方、消費者(人)係わることとして、特に重要なのは生活規範である。食べるということは異物を体内に摂取することなので、心理的な要素も重要になる。受容性と言い換えることができるかもしれない。消費者の生活規範に抵触する場合は、安全性が確認されて いると言われても不安を払拭できない。ここに生活規範とは、宗教・信念、倫理・道徳、思想・信条がある。欧米人の場合、生活規範に占める宗教(キリスト教)の役割が大きく、宗教とそれ以外の要素が明確に区別されている。 宗教が禁じていれば宗教上の問題になるし、宗教が信念や倫理などの要素のかなりの部分をカバーしている。だから信念や倫理・道徳などが問題になることは少ない。一方日本人は、宗教(仏教、神道)の役割が小さいので、 信念や倫理・道徳などの要素が明確に意識されることなく不安に係わる。「安心とは」で指摘した欧米文化と日本文化の違いはこの辺にあると推量している。 消費者(人)に係わることとして生活規範以外に、食経歴とか体質、性格がある。ただし、これらの要素に起因する場合は個人的な事情であり、社会の多数派を形成することは少ない。したがって社会的問題とはなり難い。 一般によく指摘されるのは信頼である。この件は「安心と信頼」で論じているので、そちらに譲る。 最後に指摘しておきたいことは、安心に関し消費者が食品を実際に摂取した評価であることは少ない。ほとんどは食べることなく情報で評価している。特に新規性のある食品・食品素材は情報しかない。だから、一旦不安を感じると増幅し勝ちである。 |