安心と信頼は別の用語にみえるが、不思議なほどに同類の用語として使われてきた。たとえば山岸は、日本は安心社会でアメリカは信頼社会である看破したが、この例では、似た用語としながら、その違いも浮き彫りにしている。食品分野ではほとんど同じ意味のように使われることがある。
安心を信頼に置き換えるような捉え方がある。たとえば「大阪府食の安全安心推進条例」では、“「食の安全安心」とは、食品等の安全性及び食品等に対する消費者の信頼をいう”と定義している。ここでは、
「食の安全安心」を定義しているのであるが、安心と信頼をほとんど同義語としている。
個人的にはやや唐突と感ずるが、24の道府県で制定されている「食の安全・安心推進条例」の多くが同じような捉え方をしているので、それなりに普及している見解といえる。
専門家の間では、安全と信頼により安心が得られると捉えるのが一般的である。代表的なものに、この分野の指導的立場にある唐木が主張する「安全+信頼=安心」がある。安全を確保するだけでは不十分で、信頼も得ることによりはじめて消費者の安心が達成できると説明している。
安全と信頼が揃えば消費者は安心するとするならば、安全は確保されているのに安心が得られなかった案件では、信頼の対象である行政担当者に落ち度があったことになってしまう。
事はそれほど単純とは思えない。行政機関の担当者の不手際に起因したこともあったかもしれないが、多くの場合は案件の方に原因があったと指摘できる。
「安全+信頼=安心」論の背景には、十分な安全性試験を行い、これをしかるべき機関で審査することにより安全性が確認されているにも係わらず、消費者から異議が出されるケースが少なくないからである。食品添加物しかり、組換え食品しかりである。関係者が消費者の安心が得られない理由を検討した結論が、信頼の重要性である。安全性は確認しているのだから、信頼さえ損なわなければ、消費者は正しく安心するはずと考える。
ここで確認するべきことは、安心と信頼の主体は消費者だとして、その対象は同じとは限らない。安心の対象は必ずしも明確でないが主として食品であろう。これに対し、信頼の対象は食品のこともあるが、通常は行政機関
や食品企業である。そして対象が行政機関のケースと食品企業のケースがしばしば区別されずに論じられる。専門家が信頼の重要性を語る場合の対象は行政機関であり、食材表示違反や産地偽装での対象は食品企業である。
上のパラグラフでは信頼の主体を消費者としたけれども、行政機関や食品企業が主体で消費者は対象であるケースも考えるべきである。言いたいことは、消費者の信頼を得る努力も大切であるが、消費者を信頼する訓練も必要と思われる。下々(国民)が変なことを言っていると思ったら、馬鹿者と叱り飛ばす前に、それは神の声かもしれないと自問したい。民の声は神の声である。
(2012年8月作成)(2014年3月改訂)