安全安心には、国際的な機関で定義された例はない。というより、ありそうにもない。日本的な情緒を持った用語で、欧米型の合理主義とは相容れない。
実は、日本でも安全安心の確立した定義はない。安全安心は、辞書はもちろん現代用語辞典の類いにも登場しない。論説・解説の類で言及される例は数多いのであるが、著者がそれぞれに独自に使用するだけで、まとめた例
は見当たらない。そこで本項では、安全安心がどのように使われているか俯瞰し、本来どう理解されるべき用語かを示す。
安全安心の使われ方は、安全を重視するものと安心を重視するものに大別できる。
大別と書いたが、一般的には安全が重視されている。安全を重視する場合、本サイトの「安心とは」の項でも指摘したように、安全は客観的な判断であり安心は主観的な判断として、安全の優位性を強調する。極端な場合は(それが結構多いのであるが)、安心を合理的な安全性施策を歪める要因のように捉える。このよう
に捉えるのであれば、安全安心と言わず単に安全というべきである。
安心を信頼と言い換えてしまう場合も多い。例えば大阪府食の安全安心推進条例では、食の安全安心を「食品等の安全性及び食品等に対する消費者の信頼」と定義している。24の道府県で制定されている条例はそれぞれにかなり異なるが、大阪府の定義は代表的なものである。食品分野だけでなく、防災・防犯などの分野でも安全安心がよく使われる。その使われ方をみると、例えば防災の場合は、行政がしっかりとした対策を講ずるとともに的確な情報を提供して国民の信頼を得る、というように使用されている。このように安心を信頼で言い換えるのであれば、安全信頼と呼ぶのが適切である。
一方、安心に重きを置く場合は、安全は安心でなければならないと捉えるのが一般的である。本来ならば国民の安心である民意の把握が必要であるが、調査の実施は容易ではないので、実際には消費者団体が安心できるかの問題とされてしまう。この論理を
食品の安全性評価に持ち出すと、消費者団体が安心するまで安全性試験を実施することが求められる。安全を標榜して安心だけを問題にするのであれば、食の安心と呼ぶのが適切である。
安心に重きを置く場合のもう一つの見解は、食品偽装とか賞味期限のような安全とは直接関係のない案件に対し安全安心を持ち出す。これは一部のメディアに認められる。読者の注目を惹くのに効果的なためであろうが、単なる便乗である。安全安心を重視しているようで、実際には安全安心の重要性を損なう要因となっている。
以上のように、安全安心と言いながらその意味するところはそれぞれに異なっている。議論しても噛み合わないのは当然で、日本においてリスコミが定着しない理由の一つとなっている。その一方で、食品安全委員会が設置されて健康影響評価が定着してからは、特に安心を重視する見解が勢いを失いつつある。
しかしながら、社会全体でみると安全安心の用語は定着している。防災や防犯の分野では、行政機関が積極的に安全安心を持ち出している。この場合も安全に重きが置かれているが、安心に対する拒否反応は感じられない。市民・国民から不安が寄せられた時は、むしろ前向きである。
また、人々の判断は合理的思考だけでなく感情によることが知られている。Buckらは感情的判断だけの人はいるが合理的判断だけの人はいないことを指摘している。
安全のことはよく分かっているが安心のことは分からない専門家も、安心のことはよく分かっているが安全のことは分からない消費者も、両方が納得できる共通語としての安全安心の捉え方を構築するべき時期となっている。その場合、安全と安心の両方の重要性をそれなりに認めることが必要である。
筆者は、安全安心を「国民の安心を伴う食の安全」あるいは「食の安全に係わる国民の安心」と捉えることを提案する。前者は安全を中心に据えた見解で、後者は安心を中心に据えた見解である。そして、安心の主体が国民であることを明示している。一つに絞らないのは、筆者の浅学のためでもあるが、安全安心についての理解が混沌としている中で、現時点で一つに絞り込むことは必ずしも適切でないと考え
るためである。
(2013年11月作成:柳本)(2014年3月第3訂) |