食経験は複合語なので、食と経験に分けてそれぞれの意味を確認すると、食とは「動物が生命を維持するために、栄養素を含む物質を摂取すること」であり、経験とは「実際に見たり聞いたりおったりして、まだしたことがない状態から、したことがある状態に移ること。また、それによって知識・技能が身につくこと」(岩波国語辞典)である。つまり、食経験は、食べた実績があるかととともに、そこから知識を得るという意味になる。食経験とは、本来は定性的に有無を問う用語である。なお、食経験は、食の嗜好性との関係でも関心が持たれている。
この食経験が、食品の安全性評価に活用されている。丸ごと食品では食経験を活用しないと安全性評価が困難という事情もあるが、
食品成分では食経験は必ずしも必要がない。ところが、食経験を都合よく拡大解釈して、安全性評価における安全性情報や安全性試験の役割を軽視する動きがみられる。特に、健康食品分野において目立っている。
ここで、食経験は個人の場合と集団(国民)の場合で内容が異なることを指摘しておく。個人の場合、たとえばオーストラリアに旅行した時にカンガルーの肉を食べた人にとっては、カンガルーの肉も食べた経験がある。一回でも食べれば、食経験がある。食経験の嗜好性との関連付けるケースは、個人の場合に該当する。一方、集団の場合は、昔から食べてきたことであり、多くの人が長期間ある程度以上の量を食べてきたことを意味する。何処かの人たち食べているくらいでは、食経験があるとはいえないし、行事食として年に1回食べていても十分な食経験があるとはいえない。そして、食経験を安全性に関連付けるケースは、集団の場合に該当する。
食経験による安全性確認の科学的根拠は案外薄弱である。食経験というと究極のヒト試験であり疫学調査であるようにも聞こえるけれども、実際には試験計画がなされていないし、なによりも発生する危害の観察体制が欠如している。これでは試験したとか調査した
ことにならない。また、食経験で確認できるのは急性毒性による危害であり、それも頻度が比較的高くかつ症状が認知されるものに限られる。行政が国民の健康をケアしている社会でないと、急性毒性による危害であってもしばしば見逃される。慢性毒性や生殖毒性などによる危害の多くは看過される。たとえ危害を認識できた場合でも、
その原因究明が困難である。
食経験が依拠するのは「昔から食べてきたものは安全」という社会通念である。食経験による安全性の担保は、安全というよりも安心の領域である。したがって、安全性評価において食経験を活用できるのは社会通念の範囲内であって、その以上の役割を担わせてはいけない。
(2015年6月作成)
作成:柳本正勝 |