四季に彩られた我が国の風土を、日本人はこよなく愛している。中でも初春と晩秋は、最も愛される季節であろう。暑い夏や寒い冬も、嘗ては嫌われていたが、冷房暖房が普及した今日、楽しみも多い季節と感じられるようになった。俳句のように季語を必須とする詩を発達させたのも、季節を大切にする日本人ならである。 旬とは、元々は暦の用語であるが、現在では食べ物の旬を指すことの方が多い。食べ物、特に野菜・果実・魚介類の旬は、それほどにまで大切と考えられている。ところで、「旬」とは何かであろうか。模範的な回答は、@食べ物が最もおいしい時期、A大量に出回る時期、B価格が安い時期、である。もう一つ同じような意味で使われる言葉に、季節感がある。 「旬が消えた」と言われるようになって久しい。実際、食べ物消費の季節性は小さくなっている。つまり周年化が進行した。筆者はこの傾向に関心を持ち、いろいろな資料を用いて長く解析してきた。学会などでこのような解析結果を発表していたので、旬がなくなっても良いと考える者として、旬を愛する人から批判的な目で見られたように思う。しかし、これは短絡的である。何事によらず事実を客観的に把握し、そのうえで対応策を講じるのが望ましい。事実に目を瞑って、「旬を愛しましょう」と訴えるだけでは自己満足になる。 ところで、消費が周年化すれば本当に旬がなくなるのだろうか。最も典型的に消費が周年化を進行した野菜を例にとって考えてみる。たとえばトマト。秋・冬・春にもトマトをたくさん食べるようになった。これでトマトの旬が夏ではなくなったのだろうか。上で見た定義に照合してみと、@夏がト最も味の乗っているトマトが穫れる時期であることには変わりがない。Aの出回り量は現在でも夏が多い。Bの価格も相対的には夏が安い、つまり、3つの指標のどれをみても、トマトの旬は相変わらず夏なのである。こうしてみると、野菜の消費が周年化すると旬がなくなると言われるのは、むしろ不思議である。一方、野菜の消費を季節限定にすると、失うものは大きい。安価で栄養が豊富でおししいトマトが、夏にしか食べられない。そして、夏は毎日のようにトマトを食べることになり、うんざりするはずである。食事を豊かなものにするためには、大根やほうれん草など主要野菜を使った料理は夏でも献立に入れるのが望ましい。何よりも、バランスの取れた栄養を摂取するのに不都合である。人間の体は一年平均で栄養バランスがとれていれば良いというわけではない。なるべく毎日の食事の栄養バランスがとれていることが望ましい。そのためには、毎日いろいろな種類の野菜を食べるのが合理的である。 実は、トマトの消費が周年化すると、失い勝ちなものがある。旬の物の季節感である。日本人は季節感が好きである。おかずの中に季節感のある素材を見つけたときは、得も言えぬ充足感がある。夏にしかなければ、トマトを食べていると「夏だ!」と思える。旬の物でも知識がなければ季節を感じなくなるという意味では、野菜の消費が周年化すると「旬が消えた」と言えるかもしれない。 結論を言えば、旬を大切にする我々が今後目指すべきは、野菜、特に主要野菜はその周年化を受け入れつつ、旬の物に季節を感じる食生活を堅持することである。 実は季節感をより鮮明に感じることができる初物を失ってきたのであるが、初物は旬と似て非なるものである。旬を大切にする食生活とは、自然と共に生きようとする人間が目指す食生活と言えよう。 野菜消費が周年化して季節感が薄れ勝ちになっている今日、旬のものを取り入れ、そこに季節を感じる食生活を楽しむにはどうすれば良いのだろうか。答えは簡単である。野菜、果物、魚介類の旬が何時かについての知識を持つことである。今何が旬かを知ってそれを取り入れる努力をすれば良い。嘗て我々は受動的に旬の時期を知っていた。これからは、能動的に旬の時期を知ることが必要になった。我々は賢い消費者になることが必要となったのである。幸い、旬を大切にしようとする人も多いので、公的機関で情報を提供しているところもある。生産者や食品メーカーも旬情報を提供している。これらの情報を上手に活用すれば、旬の物に季節を感じる食生活を容易に楽しむことができる。
最後に付け加えたいことがある。一般には、レストラン・料亭の料理で旬が語られることが多い。しかし、食事の基本は家庭にある。そういう意味で、家庭での食事で季節感を味わうことが、旬を
嗜む本来の姿である。 |