世の中には特別な食べ物だけがおいしいと考えている人がいる。特別な素材を使い、特別に訓練された料理人が精魂込めて作った物だけがおいしいというわけである。むしろ一般的かもしれない。ところが実際には、健康な人は妻なり母が作ってくれた普通の料理でもおいしいはずである。 たとえ食材はその辺のスーパーで買ってきた物であっても、たとえ調理器具は使い古した鍋・包丁と普通の家電製品であっても、そしてたとえ料理は必ずしも得意でない妻や母が作ったものであっても 。
人間が食べているものは、体にとって異物である。異物を体内に取り込むのであるから、食べることはある意味で大変危険なことである。一方、栄養成分 の塊である食品を摂取しないと、人間は生きていけない。したがって、食べ物を摂取すること自体が快感である方が都合が良い。食べること苦痛だとすれば、個体の維持が危うくなるからである。多分このためであろうが、人間の体には安全で栄養のある食べ物を摂取するとおいしいと感じる仕組みが備わっている。この辺の事情は、セックスに似ている。セックスも行為自体が快感である。セックスすると苦痛だとすれば、種の保存が危うくなる。
まずいものも確かにある。それはおいしさを損ねる要因が明確なものである。その要因には、有害なものとか摂食が困難なものがある。これに加えて、心理的な困難がある。例えば信仰で禁じられている食べ物は、信者にとっておいしいはずがない。
はじめに述べたような特別な食べ物だけがおいしいという考えは、どこから来たのだろか。一つは、大部分の人はぎりぎりの食生活を強いられ、一部の人だけが豊かな食生活を享受できた時代が長く続いたことに起因すると考えている。一部の人の食べ物だけがおいしかったのである。もう一つは、食味の良否が強調され、食べること自体の快感が軽視されたのである。念のために付け加えれば、食通さんは好ましい食べ物の基準を高く設定して、そこに到達しない食べ物をまずいと呼んでいる。
食べ物には、多くの「まずいもの」と少しの「おいしいもの」があるのはなく、多くの「おいしいもの」と少しの「まずいもの」があると考えたい。