安心性と安全性の比較を取り上げる目的は、安心と安全の関係を明確にしたいためである。本サイトでは繰り返し述べているが、食品分野においては安心をあたかも安全に従属しているように捉えている。この誤りを克服するために、安心と安全の違いを明らかにしてきたが、安全性と安心性の違いであればもっと明確に区別できると考えた。 はじめに安全性と安心性の定義を確認しておく。安全性とは、「食品の体への悪影響がない性質」であり、安心性とは、「食品の心への悪影響がない性質」である。この定義は大雑把かもしれないが、両者の違いを端的に表している。この定義によれば、「食の安全・安心」のように両者を一体的に捉えられることが多いのは不思議ですらある。 ここで指摘したいことは、安心性は安全性を包含するという事実である。この表現はやや唐突と感じられるかもしれないが、安全性に問題のある食品はそれがわかれば 必ず安心性を損なうという事実からご理解いただけれはずである。 安心性が安全性などを包含することは、安心性と安全性が質的に異なることを意味する。安全性の場合その原因となるのが物質であるのに対し、安心性の場合その原因となるのは情報である。すなわち、安心性に係わるのは安全性そのものではなく安全性に関する情報である。ここに情報には、消費者が五感により察知する品質情報と食品事業者により提供される品質情報がある。一方、人は食知識や食経験に基づいて受容基準を形成している。入手した情報が受容基準に照合され、受容できないと判定された場合は不安となる。 安全性と安心性との違いで重要なことに、安全性が食べた後の結果が対象になるのに対し、安心性は食べる前の結果(心理状態)が対象になる点がある。この事実は、安全性は物質が人の体に作用する結果であるのに対し、安心性は情報が人の心に作用する結果であることを反映している。近年ではリスクの概念が定着し、安全性において事件が起きてから対策を講ずるのではなく、実験的に危害を推定して未然に防ぐ施策が進められている。 つまり、安全性においても食べる前に対策が講じられるようになった。ちょうどこの頃から、食の安心が社会的に問題になってきたことを指摘しておく。 安全は客観的で安心は主観的と主張される。本サイトではこれを強調しすぎる弊害を指摘しているが、一面を言い当てている。つまり、安心性は、個人により、属性(性、年齢、収入など)により異なり、また民族 あるいは国籍により異なる。日本の消費者を想定した安心性は、アメリカや中国の消費者を想定した安心性とは異なる。一方、安全性は属性や民族が異なっても変動は小さい。したがって、安全性ではCodexで策定した規格をWTOの調停に使用することができる。しかし、安心性で国際規格を作成することは困難であろう。 安全性は時代による変化はない。安全性基準が変わることがあるのは、当該物質による体への影響が変わったのではなく科学技術の進歩により当該物質に対する知見が高度化したためである。しかし、安心性は人に依存するので、人間社会の進歩とともに変わる。 安全性は科学的に評価できるが、安心性は科学的に評価できないというのも概ね当たっている。しかし、安心性についても全くのブラックボックスというわけではない。人を対象にした意識調査などで推定は可能である。また、脳科学や心理学の進歩により、 安心性を科学的に評価する方法が開発されるかもしれない。 安全性に関する専門家は食品分野には大勢いる。食品企業だけでなく行政機関や研究機関にもたくさんいる。これに対し、安心性の専門家はいないようにみえる。確かに、行政機関や研究機関には安心性の専門家は見当たらない。しかし、食品企業の商品企画部門にはいると言える。商品企画部門においては、消費者が何に不満を持ち不安を感じているかを探り、それを品質目標の策定に活用している。これを担当している者は安心性の専門家でもある。 (2013年6月作成) |